昭和43年5月29日 朝の御理解



 御理解第83節に、「一年に分限者になるような心になるな。先は長いぞ。一文二文とためたのは、見てる(尽きる)ことはないが、一時に伸ばしたのはみてやすい。神信心をすれば、我慢我欲はできぬぞ。ぬれ手で粟のつかみ取りの気を持つな。人より一年遅れて分限者になる気でおれ」と。

 これは、この御理解の文字、この文章に表れておるのはこれだけですけれども、いわゆる、これを、御理解をいただきますと、これはどう言うことになるか。信心をすれば、いっつもこう、控えめでおらなければならない。人よりか一年送れて分限者になる気にならなければならない。ガバッと儲かるような事はいけない、と言うようにも、聞こえる。ところがね、これは、そう言う意味ではないのです。そう言う、一年に分限者になるような心になるなと、と言うことは、急ぐな焦るなと言うことです。ここに、人間心をはさむなと言うことです。先長いぞと。一文二文とためたのは見てることはない、とこう仰る。先は長いぞと。

 問題は、何と申しましょうかね。まあマラソン競争なんかの時に、初めバーっと走って、後で、皆に抜かれてしまう。けれども、初めの間は、言うならば、ぼちぼち走っておるように見える。疲れが( ? )。だんだんだんだん力が出てくる。皆が力が抜けた頃には、バーっと実力を発揮して、結局は勝ちをしめることが、まあできるようなものにも似ておる。ね、先は長いぞ。(  ?   )なかぞ、一生というものは。

 ね、だから、例えて言うなら、30代でもう(きゅうまんか?)になったという人です。40代ではもう、代を成しておると言うような、人がです、さあ、50になり60になりしだんだん、貧困になっていくという人がおる。もう70の頃には、それこそ、(   ? )にでも行かねばならんという人たちがある。ね、先は長いぞ、先のことは人では分からんぞと。

 一文二文とためたのは、見てることはないがと、少しずつ(  ? )貯めていったのはと、と言うのはね、一文二文という意味はね、これは、だんだんおかげを頂いていくという意味なんです。だんだんおかげを頂いていくと言うことなんです。このところはね、いわゆる、見てることはないと、一文二文とためたのは、見てることはないがと仰る、ここんところが大事なんです。見てることがないと言うのはね、もう尽きない、限りがないと言うことなんです。もうこれでお終いと言うことがないと言うことです。言うなら、無限大無尽蔵の、おかげに繋がっていくと言うことなんです。

 それを例えば実例を持って、言うとですね、私が、よく申します、その日暮らしのできるおかげを頂けと私・・・。もう、ほんとに神様のお働き、神様のおかげにはもう恐れ入ってしまう、という、日々がです、神様のおかげで立ちいっておるんだなと言うおかげです。そこから、確信が持てるのは、もうとても人間の知恵力で、できることではない。神様のおかげを頂かなければ立ち行かんという、この、実感というかですね、そういう、神様の働きを、(  ?  )感じることができる。ここんにき一つの(  ? )ですよ。(    ?    )ですよ。

 人の、それこそ、(かけおうて?)でからでも先にでろう、と言ったような気持は一つもないですよ。人より一年遅れて、分限者になれと、なってからのことですよ。ここから、ね、一番・・・。( ? )我先に、金になることなら、それこそ、人の迷惑なんかはもう全然考えもしないと言うような、考え方じゃないと言うことですよ。一年、一年に分限者になる気になるなと言うことは、そう言うことなんですよ。とにかくはよ行ったもんが勝ち、と言うような、いわゆる人間心おいた、考えですよ。

 一文二文とためたのはというのはね、末は長いぞ、ね、だんだんおかげを頂いていったのは、一文で立ちいきよった。それが二文で立ち行くようになり、一文二文といってまあ、なんですけれども、まあ言うならば、百円二百円と申してもいいですよね。これで、おかげをだんだん頂いておられる方達は、ここんとこの(体験?)が非常にあの、(   ?  )でけていってるようですね。

 先日、善導寺の原さんが、近所の大きな商売をしておられる方が、呉服屋さんかが、あんたん方は、もう、どうせ、(   ?     )よそんどん(勤め?)に出してから、家で、あーたもう、親子4人でじゃんじゃんやってから、(   ?   )どんとってから、その、せっかくじゃけん立派な洋服屋さんになさいち。金が足らんなら買ってあげますよ、て言うて、いわっしゃった。

 それをさあ、それを言うてござるその大きな商売をしござる人はと、なるほど大きな商売をしござる。なるほど開けてござる。けれどもさあ、月々の、言うなら、手形手形に、もう、追われてから、いわば(あおゆきとゆき?)。問題はね、大きく(まぐち?)を広げると言うことじゃないでしょうが。人は誰も知らん。それこそ、百円二百円のその日暮らしかも知れん。けれども、例えばなら、原さんところの場合なんかは、もう見てるということがないでしょうが。

 それでいてなら、さあ、四人の子供さん達が、結婚と言ったような時に、なら、まとまった金も入るけれども、さあ、近所隣親戚( ?  )も、そげん、恥ずかしいことはないようなことが、いや、恥ずかしいどころではない、(   ?   )すぎたと言うような、おかげを、何とはなしに頂いていかれるでしょう。必要な時には必要に応じて。だから(集会にいく?)、いかにもそれが、ぼつぼつのようであるけれども、そこに、言うたら、その原さん一家のですね、もう日々の事ながら、もう神様のお働きには恐れ入りますと言うことになってくる。

 さあ明日はもうお父さん、お初穂何か(  ?    )ちょいちょいある。けれどもまーだお初穂に事欠いた事もなからなければ、食べるに事欠いた事もない。もうそこに、神様のね、いわゆる一文二文と、ためて、いわばもう見てることのない、それにもう繋がっていかれよる証拠です。

 母さんじゃんじゃん、( ? )でん買ってから、(  ?  )どんどんしてから、(     ?      )、あらら息子さんがあなた、よかとがもっちゃる(    ?     )。してごらんなさい。それは、そう言う生き方も、言わば、あるでしょうけれども、現在の原さんの生き方は、そうではない。それこそ、人より一年遅れて分限者になるような心持がだんだんできていきよるのであり、先は長いと言うこと。(してもう一年?)、言うならば、まあその人にですね、まあいわゆる先を見よってください、と言いたいところじゃなかろうか。

 こと神様のことと言うたら、じんごにおちない。さあ、どこどこの共励会といや、原さんの顔が見えないことはない。もう他から見ると信心道楽のようにある。けれどもそこにはです、もう確実なものを、心の中に、蓄えていってござる。

 これは原さんだけではないですね。ここで真剣に、信心頂いている人たちは、そこのところのおかげを頂いて・・、ただ、お願いせんならん時だけに、神様にお参りしておるというのとは、いわば、いわゆる根本から違う。いわゆる、ここには信心の稽古に、来ておる人達ですよね。ここには信心の稽古に、参りゃ参るごとあるですよお参りしなさいと、言うてるんじゃない。ここには信心の稽古に来るところと仰るその、稽古に来ておる人達なんだ。

 それをなら、もう少しハッキリと大きく、実際におかげを受けておるというのが、合楽です。ね、それこそ、百円二百円のその日暮らしから、千円のその日暮らし、(  ? )が出来るようになり、一万円のその日暮らしが出来るようになり、ね、これを月で言いますと、言うならば、百万円のその日暮らしが出来るようになる。

 現在ではですね、私は、4、5日前たまがったですけれど、私はもうこんな風ですからね、お初穂が、実際月にどれだけお初穂が、集まりよるかは知らんとですよ。しかしまあ大体5、60万くらいはありよるじゃろう( ?  )、あの、銀行への、定期の支払いがありますからね。ところが先月、今度は、ここに経理面でも、きちっとその役所の方へ、もう一銭漏らさずもう、(素直?)なことから、(  ? )出さなければならにことになった。宗教法人になりましたから。

 それで、何日がかりでずーっとここのところの、経理を、久保山さん承ってやって、あの、出ました数字を見ますと、これ、ほんなこと(  ?    )。先生しかしこれだけあらなければ実際は、合楽は立ち行きませんよ、っていうのがね、皆さんどのくらいだと思いますか。椛目での、其の日暮らしは。月々これだけなかなにゃ椛目が、合楽が立ち行かんていうのは、いくらぐらいあれば立ち行くと思思うですか。百万円なからなきゃ立ち行かんですよ。それが誰にもだれーにも言わずに、さあ総代さん月々の支払いいくらですばい、さあどげんしましょうかとか、私もうまだいっぺんも相談した事ないですよ。本当に。

 ここの経理を承っとる、その久保山さんが一番承知です。言うなら、その日暮らし、その月暮らしと言うとですね、百万以上ずつのお金が入ってきとるです。ね、それはあの御造営の時代は、御造営費と言うのがたくさんありましたから、それはまあ、ですけれども、現在です、私は実際もう驚いてしまいました。あー私がもうここに、もう一生懸命こうやって、本とに、やっぱりお届、ね、今300、400ありますがね。(   ?   )、私はほんとに、いくら合楽で今おかげ頂いておるか知らなかった。その数字見せていただいてから、よーつ、あの、あの、いよいよ細々した説明聞かせていただいたら、なるほどこれだけ、それかっち言うて、私共が贅沢やらいっちょんしよらんです。

 考えてごらんなさい、月々百万円の、その日暮らしができよるですよ。皆さんもう、只只、驚いてしまうばっかりでしょうが。おそらく、(教主?)には、おそらくこれだけの、まあ(みずあげ?)っちうともおかしかばってん、(    ?    )がないでしょうね、教会に。

 百万以上のお金が、月々になからなければ合楽は立ち行かんのが、ね、さあ誰に相談することもなからなければ、誰に頼まにゃならんこともなしに、それが必要な時には必要なだーけ、回っていきよると言う事実を見てもです、なら私共がその日暮らしの、なら、百円のその日暮らしから、二百円のその日暮らしの、内容が段々できていくに従って、おかげを受けておると言うことです。

 人より一年遅れて分限者になる気になれと仰る・・、決して人より一年遅れることになっとらんでしょうが。ただ、その気になるだけだと言うこと。ね、自分の、う、言うかね、一年で分限者になるような心になるな、先は長いぞ。一文二文と貯めた金は見てることがない、いわゆる一文二文と言うのは、段々おかげを頂いて来た者はです、これはもうその人の、言うならば、神様のご信用によって、頂けた、一つの力であり実力なのだ。これはもうこの世だけじゃないですよ。あの世にも持っていけるとですよ。一つも無理がない。

 昨日おととい、ある所から、お参りがあった。でいつももう、お参りは(古い?)、十何年前、ある教会の、総代をしておられた。もう50年から以上の教会に、朝参りに私はしとる、毎朝。その人が。もううちあたりの近所にはもう、地区というとこに全然御比例の立つ教会がないから、教会では、内職を、先生方がしよります。
と言うように、確かにその地区は、金光教の、教会に御比例の立つ教会がないという(  ?   )。

 ところが先日みえてから、ここへ。先生あの、今日、( ? )先生が仰りよりましたあの、私のほうの地区に、先生あの出社を出すっち言いよりましたでしょうが。私はもう寝耳に水でした。そんなこと言うた覚えがないです私は。

 ところが、先日ですね、大きな向こう料亭じゃったとが病院になって、今、(      ?          )、家が大きすぎるち、表には、広い、広うなって駐車場もあってですね、もう教会にちょうどよかろうごたるけん、先生どうでしょうかち、私がいつそげな事言うたの、と言うわけにもいきませんもんですから、向こうは私が言うたと言いなさるもんですけん、そうじゃったかのう、私はとぼけとったとです。してなかなかのそればってん、この頃はここに教会がいっちょできるだけでん、もう隣接教会の判いっちょもらうでん大した事じゃったけんで、(      ?        )。と言うようなことでですね、それが、まあ一里あるかなしかぐらいのとこらしいですよ、もうそこに、大きな教会のある所から。

 さあ、そらそうばってんあんまり近すぎ(   ?  )許可がおりるめえぐらいで私は、ごまかしておりましたけれどもです、もうとにかく先生私は、もうあちらに先生方があの、ここの出社がみえるならもうね、あちらの地区のも助かるじゃろうと思いますと言う。もう全然、もう私がある一人その、教会にお参りしよりますが、私が何日か参らんとお呼びきなさる。もうだからもう、行かにゃほんと気の毒かけん私が、長年只、総代として、お参りしよるだけであって、息子も(やめたい?)、息子嫁も導きたい。自分の知っとる人たちも皆、お導きしたい人がたくさんありますばってん、自分の現在おかげを頂いておる教会には、もう助からんことが分かっとるけん、お導きする勇気がないち仰った。ね、ですから、合楽の御比例は、私共の地区に移していただいたら、先生、私がお世話させていただきますから、どうぞこのあちらに、出社出してくださいち言うてからもうしきりに言われる。

 帰られた後にですたい、ほんに自分の好きなごつ出社をそこ辺に出すてんなんて、考えたこともなからなければ言うたこともないがですね。どうしたこっちゃろかと私思うてから、神様の何か御神意ご都合にあることに違いない、と私思うてあの、神様にそのことを、お願い申させてもらいよりましたらね、今でもあるでしょうかねあの、おもちゃの、ふーっち吹くと、こうやってクルクルクルと曲がったり、こうすっとがありますよ★。そうちいうことは、ちょうど舌を出した様にブラブラっとこう出てくるやつ。外すとパサっと舌が引っ込むやるやつ。あれを頂きますもん。そしてご理解にね、これはね、言うなら神の働きぞ、舌を巻くようなおかげになる前提ぞと神様が仰るんですよ。

 だから私が言うてもらうようなことがですね、先生から聞いた、どこ、どげなふうで間違うて、どげな風で噂を聞いたとか知らんけれど、そのそう思いこんでござるです。それも何故そう言うことになったかと言ったら、先日の大祭で、ある先生がお話しがあった。そしたらもうそれこそ、棒にも箸にもかからんごと、合楽の悪口いわっしゃったげな、その先生が。そしたらその話を聞きよったらですね、もう、もりもり腹の立ってきてから、どうでんこうして合楽の教会のこっつぁもってこんなんちいう気に、なったちその人が言われるんです。

 だからさあ、そういうことでも、神様の働きと言うものは、どうにもこうにもできないでしょうが。例えば舌を巻くようなおかげになるということは、今、ここんところが分からなければ、そう言う働きにもおかげにもなってこないのですよ。

 さあ、言うならばですよ、( ?  )にも、50年、60年、70年経った教会がありますけれどもです、まだ、合楽は十八年間ですよ。人より一年遅れて分限者になる気になっておる。ね、そう言う心持になっておるどころじゃない。先は長いと言う、(  ?   )一年二年でバタバタしたところでどうにもこうにもできることじゃない。神様のおかげを頂かなければできることではないとして、百円のその日暮らしがありがたく、二百円のその日暮らしが有難いでですたい、神様に、生かされて生きておるということのその喜びだけを、持って生きれば、段々段々それが、育ってですね、月に百万円なからなければ立ち行かん。しかも百万円もいるならば、(   ?     )どころじゃない、なーにも、頼むもすがるもせんでも、それが結構、回っていきよるという事実があると言うことをです、皆さんは実際目の当たりに見ておられるのであるから、この、教祖の神様が仰る通り、いや、その仰る通りで分からんなら、私が言うておるのことをしなければおかげを、本当のおかげになってこないことを、皆さんが知らなきゃいけんです。私がしだごだ言わずに、ここに久保山さんがおるけん聞いてください、ほんなこつじゃけん。

 ですからね、本当の、限りない、もう見てると言うことのないおかげ。(いちじに、いちじにのばした?)、のばして、伸ばしたの見てやすい。神信心をすれば、我慢我欲はできぬぞ。濡れ手で泡の掴みどりの気になるな。濡れ手で泡の掴み取りという事にはならなくてもです、段々段々、それが育っていくと言うことはです、言うならば、月に百万円いるでも、誰に頼まんでも願わんでも、ちゃーんとおかげを下さるような、お繰り合わせになってくる。ね、まだ百円二百円の値打ちしかない私が、バタバタして、どうかしてお広前を建てたい、どうかして信者から、搾り取りたい。と言うようなですね、まあ浅はかな考え方を持っておるならば、例えばこげな合楽が、私一生かかってん出来る事じゃありませんよ。

 だから私がよく、聞くことがある( ?  )。もう私が一生一代のうちに、それこそ(    ?     )するような、そのお宮を、建立したいのが私の念願だ、と言われる先生がありあますけれども、そげな先生のところではまずおかげを頂かれる筈がないと思いますね。自分が計画しよってから、あなた(  ?   )、例えばその、商売なら商売で、自分で計画し、でもしたっちゃ、結局自分の計画だけ(      ?    )にしてもです、いわば、舌を巻くようなおかげになってこないです。無尽蔵に限りのないおかげに発展していくような、願いはできませんです。どんなに几帳面にきちんと、んなら、月にこれだけの、貯めていきゃこれだけになると言うような計算では、結局貯まったところでそれだけです。そこには、思いもかけない、大仕事ができたり、事が起こったりして、そして、実際は、それは夢のようなことになってくるです。

 神様のおかげって言うものはそんなもんじゃあない。この辺が大変難しいところ、ね。神信心をすれば我慢我欲はできぬぞ。濡れ手で泡のつかみ取りの、気を持つな。人より一年遅れて分限者になる気になれと。ですから、ここは人より遅れて、こう言うておられますけれども、一つも遅れるどころか、とても、一生かかったっちゃ出来ないようなことが、出来ていけれるという事実を、ね、皆さんが、私は、皆さんのものに、しておいで、なけなければいけないとこう思う。そこでですよ、そう言うようなあり方にならせていただくためにはんなら、どういうことにならなきゃならんか。またそう言うことになれないのはどういうところに原因があるか。

 見教えに、天の恩を知りて地の恩を知らぬこととこう仰る。言うならば、神様の働きを知らぬこと、ということなのです。天の恩を知りて、地の恩を知らぬことということはね、少しは知ってる、半分は知っとると言うことでしょう。神様のおかげを頂かなければならぬと言うことを、知ってはおるけれども、本当に、神様のおかげを頂かなければ立ち行かん、神差のお許しをいただかなければ財産なでけん。神様のお許しを頂かなければ、本当の財産がでけん。神様のおかげを頂かなければ、本当の人間の幸せは、ありえないと言うことを、半分は知って、半分は知らんから、自分でがんばらなきゃならんのだと言うことなんです。

 天の恩を知りて地の恩を知らぬこと。ここに、天地の恩を知ると言うことはです、本当に天地の親神様のご恩徳を知ると言うこと。その、天地の親神様はどういうようなお方か。そこで、最近( ?  )先生が言われるようにです、ほんとに、最近どういう御教えを頂いても、結論は、私が生かされて生きておると言うことが分かる。いよいよ深く分かるとこう言われる。生かされて生きておる、私が生きとるとじゃあない。生かされて生きておるということが、ほんとに分かったらバタバタする事はいらんと。神様に喜んでいただけれる道があるなら、その方ばーっかり歩いときゃそれでよいと。それを、ほんとに信じきらん、それが本当に分かっておるようであって、分かっておらんから、自分ががんばらないかん。

 ここんところを誤解せずにね、自分でがんばらん( ? )、なら金光様の信心すりゃ、ちゃんとお参りだけしときゃ、自分な、(テレンパレン?)しときゃよかか、というのじゃ決してないから、その辺は、分からなければいけませんよね。そこんところを根本としての、がんばりでなかならければいけないということ。だからこそ、人より一年遅れて分限者になる気にもなれば、一年で分限者になるような心にも、ならんですむのです。

 神様のおかげを頂かなければ、問題は、私ども一家が、力を頂さえすれば、おかげが頂けれるんだ、という確信を積み上げていくことなんです。そこで、皆さん、分かるでしょう。どうでもですね、家庭が勢をそろえてです、信心になっていかなければいけないということ。信心は家庭に不和のなきがもとなりと仰る。そう言うもとをいよいよ、確固たる、確実なものにしていかなければね、この、おかげにはならないと言うこと。


 私は夕べ、皆が帰った後に、最後に、その、ここに出てきますが、出てまいりました時に、頂くことがですね、あの、★ちょうどあの、(  ?   )で鳩が飼ってありますね、鳩が、たくさんバーっとこう、舞い立つところを頂いた。何を教えてくださるんじゃろうかと、思うたら、あの、御理解頂きますことが、世界平和を、祈る心で、世界平和を、祈る心で・・・、ちょっと失礼しました。いわば、その、世界平和を祈る心で、家庭に不和のなきがもとなりと仰る、その基を作っていけという意味の御理解・・・。

 これはね、私はいつもその、世界真の平和というなんかって言うことは、あの、そんなに実感を持って祈れるはずがない、と思うておるし、また、ほんとに、その自分のことがやっぱり一番。けれどもどうしてもですね、あの、世界、世界の、真のと仰らん。これが世界、だから真の平和といわっしゃらん。世界の平和を祈る心と。だからですね、その実感はなくてもですね、やはり、心の一つのゆとりが、どうぞ世界が穏やかでありますように、( ?  )穏やかでありますように言ったような願いを持てと言うことなんですよ。このくらいのゆとりは持たなければいけないと言うことです。

 ね、どうぞあの村内が穏やかで収まりますように。ね、お宅の方の村でも、いわば(ぶっすいがっすい?)が、あるだろうと思うです。そういう時にもう若い奴ばっかりは仕方がないとこう思うただけじゃいかん。どうぞ村の一人が(おぎなわにゃ?)いけません。だから、この真の平和と言うことになるとですね、非常にこれは、やはり、力がなからなきゃ出来ることじゃないですよね、実際は。けれども何とはなしに、世界の、こう、騒々しい中にあってです、どうぞ神様、天地の中に生かされておる氏子達が、殺し合い憎みあうするようなことでは、ほんとに、困った事ですから、世界の平和を祈らせていただくという心。

 それはね、私はそれはどういうことに感じたと言うと、最近、この、頂いておりますでしょうあの、自分の、自分のことを願う、自分のことを一身一家の事を一生懸命、願って、どげなよかお参りが出来ても、どげな修行ができても、どういう御用ができても、それはね、竹の筒に水が溜まったような信心じゃと。自分のこと、自分一家だけのことを願うことは。これじゃあどげんバタバタしたっちゃ、竹の筒にボウフラが湧くようなおかげしか頂かれない。クジラの住む様なおかげを頂く為には、どうしても大海のような信心せにゃいかん。その大海のような信心とは、自分以外のことが祈れれる信心と、頂いておるでしょう。そのことにつながる感じですね。

 ですから、私ども一人一人がですね、言わばこの、世の中の、平和であることを願わせて頂けれるゆとりがです、その平和な心がです、お互いの銘々の心の中にあって、それが、家族が、全部、そういう気になっておると言うこと。

 お互いが、限りない、おかげのお恵みに浴することのできれる、いわゆる、分限者としての徳を、身に付けさせていただく為にです、私一人じゃどうでもいけん。どうでも、家族中の者が、これは、家族中の者が、真に信心によって助かっていかなきゃいけない。拝み合うていかなければいけない。

 夕べの御理解にもあったように、もう、家内からは、子供からは、例えば、もう子供んでけとるけん、その、(     ?      )。と言うところにですたいね、本当言うたら、嫁ごから嫌われちゃならん、子供から嫌われちゃならん、親から嫌われちゃならんという、精進努力をせろという御理解でしたよ夕べは。嫁ごから嫌われとりゃせんですか。息子から少し敬遠されとるようなおっかさんじゃないですか。親から、言わば信用を受けられてない子供じゃないか。家庭の不和というのは、ここ、ここにあるのですよ。結局それにはね、例えば、自分は知らん顔しとるけれども、知らん顔して、さあ飲んできとる。ばってん自分な分からん。ばってんから、飲んどらんもん( ? )プンプンする。

 タバコのみでもそうですよ。自分はタバコの匂いはしよらんごたるばってん、タバコのまんもんが、そばにおるともう、タバコのんだなってすぐ分かる。というように、自分の口臭ですね、自分の口の匂いは分からない。それが、子供に嫌われ、家内に嫌われ、主人に嫌われ、ね、親子のそういうようなところをです、お互いが努力しあえる。あ、あなたちょっと口が、臭いですよと、例えば注意を受けたらそれを改めていこう、それをカバーしよう、というような、精進努力がなからなければ、これは形の上のことだけれども、家庭の和は、望まれないと言ったような、御理解でしたが、そういうようなことにもですね、私どもが、心を細く使わせて頂いて、まず、姑親であるならば、嫁に好かれる私になろう。また、姑親に好かれる嫁、私になろう。これがね、この努力が出来なければ、家庭の和は、望まれないです。

 それと同時に、心の底からですね、平和な心がなかなければならない。しかもそれが、一人二人じゃない、家族五人おるなら五人の者がその気にならなければです、今日私が申しますような、おかげには繋がっていかない。それこそ、お父さんばっかりは、神様神様ばっかり言うちから、と言うて、神乍に道を歩きよっても、引きずり落とされるて。ね、ですからここんところを、どうでも、まず、家族が勢を揃えて信心ならせて頂いて、まず、信心は家庭に不和がなきが基と仰る、信心で、生まれてくるところの、家庭の和のおかげを頂かせてもろうて、そして、その日暮らしの頂けれると言うことの有難さ、を身を持って、実感させてもろうて、これが育ってさえいきゃあ、もうどこまでも限りのない、おかげになっていくと言うこと。

 一年遅れて、分限者になる気になれ、と、言葉には言うておられるけれども、実際問題おかげを頂いて思うことは、人よりか一年遅れてどころじゃあない、それこそ一生かかっても、出来ないようなおかげが、頂け、そういうおかげに繋がっていけれるんだ。そこにはね、もう神様の、微妙不可思議極まる、例えば、働きというものがもう、自分の知らないところで起こっておるということ。そして、それがどういうことになっておるかと言うとです、それこそ人が舌を巻くような、人じゃない、自分、ここでいうなら、私自身が、舌を巻くようなおかげを、実際頂いておる事実をですね。例えば、いわるゆ、ここの、前でもそうです。

 私は毎月、ここは100万円なからなきゃ立ち行かん(でんなんでん?)ていうことは夢知らなかった。けれどもそれができておるという事実を、皆さんがここで、聞いてですね。先生が金がなかけん困るっちゅうごたる顔したことは一遍もないでしょうが。皆さんに例えばお供えの話しでもした事ないでしょうが。借金も残っとるですよ。ちっとばかり皆さんがんばってもらわにゃ困りますよ、何て話しはこれから先でも言うたことがないでしょうが。

 それでいて、しかもそれがですね、余りもしなければ、足りもしません。現在(ちょうじ?)がいつも、きーっとしたことなんです。ここにね、不思議で不思議でたまらん働きを感じます。けれどももう私は、一月に100万円のその日暮らし、その月暮らしといわゆるね、その月暮らしができる、おかげを頂いておるということが有難いでしょうが、皆さん。ね、それはね、私の人間心での、努力とか精進ぐらいのことじゃなーんもならん。ただ、なら私がです、ただ、神様、人が助かってさえいきゃ、助かっていくことさえできればというですね、この精進だけは一生懸命するです私は。

 ( ? )、しかも、これで済んだとはいっちょん思うとりません、いつも。そういうところにね、私はお道の信心の、本当の有難さっていうものがあるのですよ。お互い今信心の稽古をさせて頂いておると言うけれどもですね、そこんところを一つ分からせていただかなきゃいかん。

 こうしなければ家が立ち行かん。昨日でした、ちょうど、文男先生が昨日、午後から来ておりました。で夕方、秋永先生もちょうど一緒にやって・・。こうして( ? )4、5人で、信心話させていただく中からでした。京都の(見本店?)に、文男さんが行くと言うことから、兄さんあんたも行きなさるかと言うことから、の話しでした。そりゃ行きゃやっぱ行くがたあるわけなんですね。京都行きゃ行くがた必ずあるわけです。けれども本当のこと言うたらね、秋永先生が言うように、俺は今度は行けんようと思うて、なぜかっち言うとちょうど13日が入るから、とこう言うわけなんです。13日会があるから、例えば13日が入ったとき何かは、この前なんかは飛行機で帰ってこられましたもんね。

 だから、行きゃ行くがつあろうばってん、神様の方を先にするという方なんです。それが、もう少し秋永先生あんたが、もう少し本当なものになったらです、それは、行くがた行くた、それこそ、行かにゃ行かんがたおかげが頂かれるばい、ち言うて、話したことでした。そこにはもう、自分たちの知恵力ではないですね、それこそ、舌を巻くようなおかげになってくる。ほっでん向こうに行かにゃやっぱ、もう新しい信者なんかっていうのはもう(   ?   )。けれども残ったって結構おかげさえ頂けばよかじゃんのと言うわけなんです。

 ね、けれどもなら、初めからそうでは、しよったら、(  ?  )。ね、そこんところを少し、少し、なら、文男さんが出来ないところを秋永先生が出来ていきよるように、秋永先生が出来んところを私が昨日、ヒントを少し与えたようにですね、それが少しずつやはり自分のものになっていくというところがです、一年、一年一年、末は長いのですから、ここんとこの稽古をしていきながら、百円のその日暮らしから千円のその日暮らしができていくというところの、確実なところのおかげを頂く、百円のその日暮らししよってから、一万円のその日暮らしをする、しようと思うような心がです、濡れ手で泡のつかみ取りになるのであり、人よりも先に分限者になろうと言う心なんです。

 ですから百円の、その日暮らしができたら、二百円のその日暮らしができること願っての信心。そこんところを、一段一段、もう誰が真似ばせんならんということはだから決してない。ね、けれども、どうぞ、例えば、この御理解なんかはね、今日申しました御理解なんかは、もう本当に聞き、聞き捨てに、捨ててしまうような御理解です。ただ、言葉に出ておるとこだけのことをする。そして、分かっちゃおるばってん実行はいっちょんできんという感じです。けれども今日の御理解ば頂かせてもらいよると、そう実行しなければ馬鹿らしゅうなってくる。その気にならなければ本当のおかげを(蹴ることに?)なるのですから。

 しかもその本当のその、この、ところから生まれてくるそのおかげを、頂きとめるのは、家庭が勢を揃えた信心であると言うこと。しかも、信心の一つのゆとりと言うものはです、世界の平和を、祈れれる、程度のゆとりと言うものはなからなければいけない。村内の、いわば、円満と言うかね、ぐらいなことは、祈れる、ゆとりがなからなければ、それは、真にとではない。自分のことは真に祈れれる。けれども世界真の平和。村内の真の円満と言うようなことなんかは、祈れんにしましてもです、何とはなしに騒々しい。それを、その騒々しい中にあってですね、何とはなしに、その、世界の平和が祈れれるような、心の状態でなからなければです、今、今日言うところの、人をかきぬけれる、かきのかさなきゃならんような、ことになってくるんです。このゆとりがないと。このゆとりを持っておらなければ、人より一年遅れて分限者になろう、と言うようなゆとりも出来ません。
 そして、なら結論とする、してはですね、決して、人よりか一年遅れる、何のことではない、と言うて先をこすと言うようなことでもないけれども、一生かかってでも、バタバタしても出来ないようなことが、事実の上に出来ていく、信心であり、そういう道に私どもがあるんだということね。皆さん確信して、それに一歩一歩近づいて、頂かなければならいと思うのですよね。どうぞ。




                           2005 4 22 kayotaro